[遠出]GWの覚書その3

若者の町ともいえる西門町でちょうデカ看板発見。ニーノはいいけどマツケンもあっさり漢字になってて一瞬誰のことかわからなかったよ。

ココから先は自分への覚書。
偏狭な自分をさらけだすのはちょっとコワい。心の広い人だけ読んでください。






士林(シーリン)の夜市に行ったときはぽつぽつ雨が降っていた。まずは駅前の美食広場へ。ガイドブックに載っていたちょうデカチキンとお餅の揚げたのを食べる。すでにお腹いっぱい。雨は降ってるけどせっかくだし美食広場だけじゃなく本物の夜市を見物に行こうと駅前を後にする。美食広場を出て歩道を歩き始めたときなにやらヘンな(唱えるようなそれでいてこれみよがしな)声。その主をちらっと見たときが第一の衝撃。見る前からこれはヤバイと思ったけどコドモもいるし危害のないことを確認しなければと思ったので。それは2人ぐらいの人で座って頭を激しく上げ下げしながらなにやら唱えていて腕だか脚だかが不完全なんだった。こういうこと言うのよくないけど本当にそういうのダメなのだ。*1それで傘であまり見えないようにしながら通り過ぎた。それだけならまだよかった。もう少し行って少し広い通りにでたとき第2の衝撃。今度はどこがどう不完全なのか丸見えの状態で道路に伏せて何か言ってる人が。今でもはっきりその映像を思い出せる自分に困惑する。忘れてしまえばいいのに。物乞いなんだろうきっと。それだけのこと。そう思うんだけどもはや自分を制御できない。何もその人たちが立ち上がってこっちに襲ってきたりしやしないのわかってるのに理性じゃ抑えられなかった。ついにワタシは泣いた。家人と1号はさきさき歩いてて2号がワタシのちょい前を歩いてたけどみんなが振り向いたときあっけにとられたに違いない。「気にせんでいいやん」て言われたけどそういう問題じゃないんだ。耐えられないんだ理由はわからないけど。生理的に受け付けないとしかいえない。偏見なのかもしれない。幼少の頃梅田の地下街を母に連れられて歩いたときに包帯ぐるぐる巻きの傷病兵みたいな人を見たあのコワさと全く同じ。一種のトラウマといえるのかもしれないけど。あのときも泣いたし目をつぶって歩いたな。まさかこんな年になってもまだあの頃と同じような反応をするとは思わなかったけど。そうやってテンションだだ下がりで無口になったワタシだったけどとりあえず夜市探索は続行。人通りの激しい路地なんかはお店とそれを冷やかす人ばかりでにぎわっててテンションも徐々に上向きに。でも雨がだんだんひどくなってきたのでホテルに帰ることにする。大通りに出てタクシーを拾うべき横っちょの路地へ入る。そうしたら少し広くなったところで第3の衝撃。また丸見えの人が雨に打たれて道の中央に寝そべっていた。結構みんな知らん顔で通り過ぎる。そうすればいいことはわかってるけど無理なので引き返して違う道を通ってタクシーを拾った。夜市は楽しいけどシーリンはたぶんもう行かない。

*1:自分が痛いのに弱いというのもあるし単純にコワいのだ。それはたとえばなにか障害を持ちながら一生懸命生きたりスポーツしたりする人を否定するものではまったくない。むしろエライな思う。前向きに生きるってスゴイことだから尊敬する。でもそういうのは全然違う。上手く説明できないけど。